知りたい気持ちがもたらすもの
知りたい欲望は人生を破壊する。
知ることを得られるものは、究極的には何ひとつない。
知ることは、愛を殺す。
知ることは、生を殺す。
知ることは、生きた屍になりたいと宣言するのと同様である。
3つの地獄〜無駄・無茶・無理
そもそも知ることができたところで、満たされるものは何か考えてみよう。
知りたいという欲望は満たされる。
欲望が満たされることで、何を得るのだろうか。
何も得られてなどいない。自分の中に潜む架空の存在に餌を与えることと同じだ。
知識を得ることは無駄である
反論はあるだろうが、これが生の法則だ。
知識を持っている人間たちを見たら、すぐわかるかもしれない。
彼らはある一定の知識を得ていることで、偉大な人と呼ばれ、尊敬や羨望の眼差しを手に入れているかもしれないが、そんなことは生きていくなかで無駄以外の何ものでもない。
知識を得ることは無茶である
どれほど大量を本を読破しようが、人間が持ちうる知識の量などロボットのそれとは比べようもない。
仮に知識を詰め込むことに成功したとしても、それを維持していくことは無茶極まりない。
なぜなら自分の内側からやって来たものでないかぎり、当人の強靭な意志力とロボット並みの記憶力なしには継続はできない。
したがってそもそも取り入れようとすること自体が無茶なのだ。
知識を得ることは無理である
知識そのものは、決して得ることなどできない代物だから。
掴むことなど誰にもできない。
掴んでいるという幻想に酔いしれることはできるが、知識はゴミだからゴミを蓄積して持ち続けるなど真っ当な人間であれば誰も好んでする類のことではない。
道端や公共施設、我が家にあるゴミ箱を覗いてみたらいい。
容量は無限ではない。一定量超えたら限界だ。
コンピューターですら、ゴミ箱に溜めておくのも一定期間だけでしばらくしたらゴミ箱を空にする。
家にあるゴミは数日毎に、収集してもらう。
では、頭の中にあるゴミは?
誰が収集するのか?
誰もしない。誰もしやしない。誰も好んで収集しようとする変態者は存在しない、自分以外には。
だから、空にするのは自分しかいない。
地獄に飽きるまで続けるのが良い
だからと言って、知識を放り投げようとしても実行するのはいとも簡単ではない。
捨てたいと思っても、そう簡単には捨てられない。
捨て方を知らないからだ。
どうするか?
方法はふたつ。
捨てる方法を探すか、
飽きるまで、うんざりするまで持ち続けるか。
わからないなら、持ち続けるのが良い。
自分ではどうしようもなく無力で、放り投げないと思っても、捨てたいと思ってもどうしてよいか分からなくなるその日まで。